大勝ちしてもやめとけ!オンカジはいずれ大負けする!

オンカジでの「大負け」の連続で借金が500万円になってしまった俺は、借金返済の活動と並行して「大勝ちを夢見るのはやめておけ」の伝道師としても活動していくつもりでいる。
オンカジには「大勝ち」と「大負け」があり、その幅が広すぎることに問題がある、というのが大方の意見であるだろうし、ここが疑われることはほとんどない。
この二項対立の構図は「大勝ち」と「大負け」の間にまるで対称性があるように対置されていることに特徴があり、そして、俺はそこ(対称)にこそ最大の欺瞞と問題を感じている者である。
問題があるのは「幅が広すぎる」ことではない。「大勝ち」と「大負け」がまるで同じバランスであるかのように配置されていること、そこに本当の問題がある。
「大勝ち」と「大負け」の二項対立、この嘘でしかない「セット売り」の解体。あやまった問題提起の是正と、本当の問題提起。
これが「大勝ちを夢見るのはやめておけ」という伝道師としての俺の主要な活動になっていくだろう。
俺のすべての言動は「人を、もうこれ以上オンカジに登録させない」「オンカジに登録してしまった人をより多くオンカジから引退させる」「オンカジで借金地獄になってしまった人の自暴自棄と死を可能な限り食い止める」という、それぞれのレイヤーの「オンカジやめておけ」という目的につながっている。
「大勝ち」という考え方を全面的に批判し、その価値と期待値を解体し無力化することは「オンカジをやめさせる」という目的のためにもっとも大きな力を持つはずだ。

オンカジでは「大勝ち」と「大負け」は対義語ではないという認識を持つ

オンカジで借金を作らない、オンカジにうっかり登録せず、無謀な夢を見ないために必要となる認識は「大勝ちは大負けの対義語ではない」という認識である。
そして、この認識を持つことは、間違いなくオンカジにとっては「タブー中のタブー」であるだろう。
この「大勝ちは大負けの対義語ではない」という決定的な認識は、多くの場合は、オンカジが原因の借金が発生し、莫大な金額になるころにようやく手に入れられるような認識である。
つまり、この認識を手に入れる瞬間、悲劇的なことに、多くのプレイヤーはすでに「手遅れ」の状態に置かれている。かくいう俺もそうだった。
この認識を、多くの人が「手遅れ」のタイミングではなく「オンカジ登録前」あるいは「少し遅くてもオンカジ登録直後」までに持つことができれば、オンカジを通して借金地獄に落ちる人間をかなり減らすことができるはずだ、と俺は考えている。
もちろん、俺のこういった考えはオンカジ側とは真っ向から対立するもので、だから、この認識は「タブー中のタブー」なのである。

「大勝ち」と「大負け」の比較というまやかしによる目くらまし

「大勝ちと大負けの幅がでかすぎる」というような言い方は、大勝ちと大負けを同列に扱うことで「いまは負けていてもいつかは勝てることがある」という錯覚を作り出すための、いわば「めくらまし」であり「まやかし」である。
「大勝ちは大負けの対義語ではない」という認識は、ほとんど疑われることもなく同列に扱われている「大勝ち」と「大負け」の関係性の詐欺を暴き「まやかし」ではない本当の位置関係を知るための認識だ。
「大勝ち」と「大負け」を同列に扱わず、まったく別種の言葉として扱い、比較不可能な言葉として区別し、拒否していく、という態度から「大勝ち」という言葉自体を自分の辞書からすっかり消していく必要がある。

オンカジでは「大勝ち」という言葉を封印することで「大負け」を避けられる

「大勝ち」という言葉の消去は、オンカジにおける「大負け」を避けるための数少ない有効な方法である。
人間は、自分が考えているほどにはみずからの思考を持っているわけではない。
多くの場合は「言葉」に引きずられて「言葉」に考えさせられいる。
その「言葉」が主体となって考えた思考を、まるで自分の考えであるかのように錯覚する。この「思考しているつもりの無思考」の状態にこそ、大きな危険がある。
「大勝ち」という言葉も、オンカジのプレイヤーの思考能力を奪うために使われている言葉でしかない。
多くのプレイヤーは「大勝ち」という言葉に引きずられた無思考による判断を、自分自身の判断だと思い込まされている。
オンカジにとって有利な側、オンカジを通して利益を得ることができる側は「大勝ち」という言葉をプレイヤーに植え付けることによってプレイヤーの思考や行動を支配し「勝ち続けること」に成功する。

「大負け」だけに目を向けていく思考が危機回避を完成させる

「ただただプレイヤーの構造的な負けだけがあるのがオンラインカジノだ」という認識を持ち「大勝ち」という言葉の使用をやめれば、オンカジにおける危機回避はほとんど完璧な領域に近づく。
「大勝ち」という「当たり前に使われている言葉」を禁じ、ましてや「大負け」の対義語などにせず、ただただ封印するだけで、確実に変化し、明晰に見えてくる思考や判断がある。
この認識を持ち、使用する言葉を疑うようにすると「いまは負けていても、いつかは必ず勝てるはずだ」だとか「負けを取り戻すためにはとにかく勝つしかない」という、オンカジで借金を抱える人間特有の歪んだ認知をただすことができる。
このような歪んだ認知と、それに導かれる行為は「大勝ち」という言葉によって思考能力を奪われて「強制的に考えさせられていること」の結果でしかない。
「大負けの対義語としての大勝ち」という考えを捨て「大勝ち」という言葉を殺すことによって、さきほどの思考も「負けているならば、もうやめよう」「負けを勝ちで取り戻すなどとは絶対に考えてはいけない」という正確な思考に修正される。
もし、まだオンカジに登録していないのであれば、その人は賢明にも「一攫千金で人生大逆転」というようなもっとも致命的な考えを避けることができるだろう。

オンカジで「大勝ち」を期待させるジャックポットスロット

「大勝ち」という言葉をプレイヤーに植えつけ、思考と行動を支配していくために、アリバイとして大きな力を発揮している象徴的なものの一つが「ジャックポットスロット」である。
ジャックポットというのは「大当たり」を意味する、つまり「大勝ち」と同義語である言葉である。
「ジャックポットスロット」というのは、すべてのプレイヤーが積み立てた賭け金を一人のプレイヤーが総取りできるシステムが搭載されたスロットのことだ。
このジャックポットに当たった人間がいわゆる「一夜にして一攫千金」という選ばれたギャンブラーであり「大勝ちをした」ということになる。
オンラインカジノを擁護する側は、この「ジャックポットスロット」の存在一つだけでも「オンカジにはちゃんと『大勝ち』があるんですよ」ということをのびのびと主張できるようになっている。
実際、俺のような人間が仮に「大勝ちなどというものは存在しない」と主張したところで「ジャックポットというものが実装されている以上、大勝ちは存在する」と反駁できてしまうし、俺は即座に論破されてしまうだろう。

ライブカジノにもアリバイの「大勝ち」が用意されている

「ジャックポットつきのスロット」がもっともわかりやすいが、オンカジってやつは、ライブカジノのほうでも相当低い天文学的な確率ではあるものの、用意周到にアリバイとしての「大勝ち」の余地をちゃんと用意してはいる。
それさえ用意してあれば、限られた少数の勝者を「アリバイ」にすることで「大勝ち」という言葉によるプレイヤーの思考の支配が容易に可能になる。
バカラやブラックジャックなどで諭吉2桁単位のベットをして借金地獄に落ちるタイプのプレイヤーは、ライブカジノに立てられた「アリバイ」としての「大勝ちの勝者」に自分がいつか選ばれるという期待によって、自分の高額ベットを選択している。
しかし、それは、極少数のアリバイでしかない「大勝ち」であって、大多数の負けているプレイヤーに「大勝ち」の機会が訪れるということは、確率的にほぼ間違いなくありえない。
この「確率的にほぼ間違いなくありえない」はなるべく見えにくいほうがよい。その見えにくさのために「大勝ち」という言葉はじつに巧妙に煙幕をはっているのだ。
このようにして「大勝ち」という言葉は「大負け」と比較される対義語として扱われ、平然と同列におかれ、プレイヤーの思考を支配し、プレイヤーにその支配を気づかれぬようにしながら、破滅へと導いていく。

オンカジでは言葉の禁止による思考の救済と支配からの逃亡こそが必要だ

ところで、俺の主張と目的は「大勝ちの存在自体の否定」ではなくて「大勝ちという言葉の使用禁止による思考の救済、支配からの逃亡」である。
さきほど、俺は自分が見事に論破される流れをわざと作ってみせたが、それは「大勝ちという存在を否定する」という闘争にはまったく意味がない、ということを言いたかったためだ。
「大勝ち」に価値を与えないこと。無力化すること。「大勝ち」という言葉が支配する領域から身を遠ざけ「勝ち」も「負け」もない世界に逃げ帰ること。
そう「大勝ち」という言葉の使用を禁止するという選択は、全面的に「勝負から降りる」ということを意味しているのだ。

オンカジとの闘争をやめて逃走を始めよ

必要なのはオンカジに対する闘争ではなく、オンカジからの逃走だ。
俺の「オンカジやめておけ」というメッセージのために「大勝ち」という言葉を批判し、無力化すること自体に大きな意味があるというのは、要するにこういうことである。
オンカジから逃走し、一刻も早く勝負から降りよう。勝負から降りるために「大勝ち」という言葉をまずは捨ててしまおう。そして「大勝ち」という言葉に強制されていた思考から、自分自身の思考と判断を取り戻そう。
オンカジから逃走した先には人間本来の平凡な暮らしが帰ってくるだけだ。勝負を降りた平凡な暮らしのなかには、そもそも「大勝ち」も「大負け」もない。そのあたりまえのしあわせをかみしめよう。
勝ち負けではない、小さな喜びや悲しみに満ちているこの平穏でかけがえのない日常をオンカジなんかに奪われてはいけない、ということを伝えるためなら、俺は何度でも「オンカジはやめておけ」と言っていくつもりだ。

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